パラスポーツが私の生きがい。青木大さん【脊椎損傷】

脊椎損傷

もくじ

  • 自己紹介
  • 発症当時について
  • 前向きになったきっかけ
  • 退院から社会参加まで
  • 現在の活動
  • 最後に伝えたいこと

自己紹介

車いすバスケットボールを楽しむ青木さんとその仲間の皆さん

こんにちは、青木 大(あおき ひろし)です!

私は高校1年生の時にジャッキーチェンのマネをして校舎の5階から転落し、脊髄を損傷しました。その後遺症によって両足が動かなくなり車いすユーザーになりました。(大バカ)

その後、いろいろな方と出会い当時不安を抱いていた『社会復帰』をする事が出来ました。現在は公務員として働きながら車いすスポーツ・ジュニア育成を楽しんでいます!

発症当時について

最初に発症前の生活を教えてください

小学生~高校生とサッカーをやっていました。特に中学のサッカー部時代は青春でしたね。決して強くはありませんでしたが(笑)。朝練や放課後の練習、夏休みに炎天下の中でまっ黒に日焼けしながら練習した思い出は今でも忘れません。

また、XJAPAN(当時はX)が大好きでギターもやっていました。仲間と集まったり、1人で黙々と練習をしていましたが、バンド結成までには至らず。高校生になってそのまま障がいを負ってしまいました。

サッカーはできない身体になってしまいましたが、「ライブをやりたい!」という夢は諦めきれませんでした。復学後、当時のサッカー部やギター仲間が協力をしてくれてバンドを結成し、高校の文化祭やライブハウスのステージに立つことができました。

仲間の優しさや大切さ、ありがたみを改めて痛感すると共に、自分がこうして元気でいられるのも仲間のお陰と心から感謝しています。

ライオンズカップ車いすソフトボール大会での写真

実際に障害を負った際の気持ちを教えてください

まさか今まで普通に動いていた、両足が動かなくなるとは思っていませんでした。

前向きになったきっかけを教えてください

発症当時、自分は15歳。看護師さんや親の介助がなければ生活できない毎日が本当に苦痛でした。

ある日、医者から「青木くんは一生歩くことができない」と宣告された時、頭が真っ白になり「俺の気持ちなんて分からないだろ!」とぶつかってしまいました。

医者は感情的になった私に、同じ病棟にいる同世代の女性のところに行くよう、言いました。

ようやく車いすで動けるようになったので、恐る恐る女性の病室に行ってみたんです。その女性は人工呼吸器をつけて眠っていました。少しすると目を覚まして、近くにいた看護師さんに人工呼吸器を外して貰い、自分に向かって話しを始めました。

その時はどのようなことを話したのですか?

障がいを負ってしまった経緯や好きな音楽に趣味など、いろんな話をしているうちにお互い自然と笑顔になっていました。夕食の時間が近くなりそろそろ自分の病室に戻ろうとした時、彼女はこう言ったのです。

「青木くんは自分で車いすを漕いで動けるからいいね。私は1人で動けないし、眠る時は人工呼吸器をつけないと呼吸を忘れてしまうの」と。

自分は返す言葉が見つかりませんでした。

彼女がその後、どのような治療やリハビリをしてどこまで回復したのか?もしくは最悪なケースになってしまったのか?は僕には分かりません。

彼女のひとことで、自分自身の障がいを受け入れることができて、勇気を貰いました。そして自分がやりたいこと(できること)は全力でやろうと考えるようになりました。

障がいといっても、そのレベルはさまざまです。車いすであっても自由に動ける自分は、もっともっと外に出ていろんな事にチャレンジする。

これが今の自分の原点です!

退院から社会参加まで

退院後はどのような生活を送っていたのですか?

学校の配慮もあり、留年せずに高校2年生(入院生活6カ月)で復学しました。登校は親に車で送ってもらい、下校は仲間の自転車に捕まってサイドカー状態で帰宅していました(笑)。

帰宅して直ぐに仲間とギターの練習をしたり、夜には車いすバスケットボールチームの先輩が送迎をしてくれて練習に行っていました。勉強のことは聞かないでください(笑)。

就職活動はどのような流れで行ったのですか?

高校3年間、お世話になった担任の先生から公務員を勧められました。

自分を含め仲間3人と試験場に行ったのですが、なんと試験会場を間違えてしまって。テストも受けずに学校に戻った時は先生に猛烈に怒られました(笑)。

自分の事を気にかけてくれた先生は、障がい者枠の試験があることを教えてくれました。なんとか無事に合格することができ、仕事を始めて今年で28年目になります。今も地元区役所で働いています。

当時お世話になった先生は現在、中学校の校長先生をしています。昨年、その恩師の依頼で生徒達の前でパラスポーツを紹介しながら「人権」について講演させていただきました。難しい話は一切なし、生徒達にもパラスポーツを体験してもらい会場は大盛り上がりでした。恩師にも喜んでいただき、少しは恩返しできたかなと思います。

パラスポーツとの出会い

15歳の頃、校舎の5階から転落し脊髄損傷となり、両足の自由を失いました。 都立墨東病院に搬送され2ヶ月の間を寝たきりで過ごし、自立に向けたリハビリをするため神奈川県川崎市にある関東労災病院へ転院しました。

復学に向けたリハビリも順調に進み、日常生活のほとんどは人の手を借りずに1人で出来るようになりましたが、退院が近づくと急に不安になりました。社会に出るのが恐かったんです。

そんな時、病院の体育館に車いすバスケットボールの選手が来て練習をしていたんです。凄いスピードでコートを走り、車いすを自由自在に扱い、何本もシュートを決めていました。衝撃的な光景に身体が震えました。 練習が終わると車いすを乗り換えて、バスケ用の車いすを1人で車まで運び運転をして帰って行く姿を見た瞬間、自分もこの選手のようになりたい(なる)と強く思ったのを今でも覚えています。

パラスポーツを通じて感じたこと

障がいを負った人は誰しも一度は挫折を経験しています。その挫折からどうやって這い上がり、前進していくかは人それぞれだと思いますが、私の場合はパラスポーツとの出会いが全てです。

はじめは何もできなかった自分が、少しずつできる(やれる)ことが増えていき夢中になりました。そしてそのうち目標や夢ができ、何をするにも自信が持てるようになりました。

私にとってパラスポーツは生きがいであり、人生を変えてくれた素晴らしいものです。そんな素晴らしいパラスポーツを今では多くの人に知ってもらい、そして体験してもらい、共生社会の実現に向けた大切なツールだと思っています。

最初に行ったスポーツはなんですか?

車いすバスケの選手として約20年間全国各地の大会に出場しました。選手を引退してからは、ハンドバイク、車椅子ソフトボール、チェアスキーのスポーツを新たに始めました。

スポーツを通じて全国に多くの車いすユーザーの仲間がいます。 今はSNS等で近況を発信しながら、多くの仲間と情報を共有し、家族や仲間と共にスポーツを楽しんでいます。

現在の活動・目標

ジュニア育成について

ジュニア育成に関して、私の周りには尊敬する方が何人もいます。その方々のみなぎるパワーと子ども達の最高の笑顔が大好きで、私は一緒に遊んでもらっているだけです。 障害の有無に関係なく、未来ある子ども達がみんなで楽しめる空間(環境)づくりを今後もしていきたいと思っています。

最後にひとことお願い致します!

障害を持ってしまうとできないことがどうしても出てきます。いくら願っても失った物は戻ってきません。だからこそ、失ったものを数えるのではなく、残された機能を最大限に生かして生きましょう!

青木さん、今日は取材を受けて頂きありがとうございました!校舎の5階から落ちたと聴いた時はかなり驚きました!その後スポーツに出会い人生を変えた事や現在の活動にとても勇気と刺激を頂きました。今回取材を受けて頂きありがとうございました。

その他青木さんの素敵な活動